想いの歴史

***統一協会での活動***

目次

私が統一協会に入ったきっかけは宗教、科学、社会問題などへの好奇心。
そして自分自身を変えて人間関係を改善したいというものだった。

統一協会員となったのは4DEYで統一協会を明かされ、それでも続けようと思ったときからだと思う。
原理に対して確信を持っていた訳でもないし、神を信じきっていたわけでもない。
しかし万人救済という原理の考え方には共感した。
他の宗教が、選ばれた人しか救われないとするところが多いのに対して、全ての人が救われなければ天国は完成しない。
その考え方に惹かれたのかもしれない。

統一協会に入ってからも、時々アベルに内緒で他の宗教を見学しに行ったりもしたが、どこの宗教も選ばれたもののみが救われるという考え方であった。
最終的な時がきたら、その宗教を信じているもののみが救われる。
私はたとえそれが真理であったとしてもそういった考え方の人たちと一緒に活動したいとは思えない。そう思って結局、統一協会に戻っていった。

そして、その当時、タバコやお酒があまり好きではなかった私にとっては、積極的にそれを拒絶する理由ができたし、男女問題を原理を通して理論的に禁止しているので、もうそういった問題に煩わされなくてもいいという安心感もあった。

その後4月に新生トレーニングで一ヶ月入教生活をし、一通りの勉強、万物復帰(珍味売り)、伝道活動(街頭アンケート)も経験する。
そのあとは次の実践トレーニング期間に入る人もいるが、私はそこには行けずビデオセンターの上級トレーニングというところに残り再度ビデオによる教育を受ける。
しかし、スタッフ不足のため上級トレーニングは9月に封鎖、急遽青年部というところに移される。

そのころアルバイトを辞め、派遣会社の社員となった。

青年部は基本的には実践トレーニングを通過してきた人たちが仕事をしながら伝道活動をしていくところ。
アパートでの一人暮らしを続け(通教と言う)、会社帰りに統一協会によって活動をする
実践経験の無い私はかなり甘やかされていたと思う。
最初のうちはほとんどが他のメンバーのお手伝い。表を作ったりの雑務が主な仕事だった。
自ら伝道活動をしてみたいと申し入れ、次第に伝道活動もするようになる。
しかし青年部はそういった実践活動だけではなくリサイクル品の販売など一般社会に根差した活動もしていたのでそういったお手伝いも多かった。
家庭で必要なくなったものを無料でもらってきて、整備し、販売する。
そしてその一部は区の福祉センターに毎月寄付をする。
そういった活動で社会から信頼を集めるのが、青年部の存在目的だったように思う。
そんな中で、私のお菓子作りの腕が認められ、専用の業務用オーブンを買ってもらい、バザーでケーキを出したり、仲間達のおやつを作ったり、誕生会や名節にはケーキを準備したりそんなことが主な活動になっていった。
そしてケーキさえ焼いていればアベル(統一協会内での上司)から何も文句を言われないそういった立場にいつのまにかなっていた。
通教と言う立場であったが、勝手にホームに泊まりこんでいてもあたりまえのようになっていた。
そういった生活を楽しみながら統一協会活動をしていたように思う。

しかし、1992年4月ごろだったと思う。
祝福を控えていたこともあって再度教育し直される事になる。
4DEYからもう一度やり直し、新生トレーニングを2ヶ月やり、実践トレーニングであるSTBというところに入ることになる。
そこからアパートを引き払い、入教生活(他のメンバーと一緒に寝泊りをして活動する)となる。
祝福は結局アベルとの意見が合わず(私自身に受ける気がなかったというところが本音だが)今回は見合わせるということとなった。
ちょうど芸能人が何人も出席して一般社会でも騒がれていた頃だと思う。

STBに入って伝道活動(訪問や街頭アンケート)をやるようになって人と接するということに慣れてきたように思う。
始めてあった人たちとアンケートを通しての質問からいろいろな話しができるようになった。
そして統一協会で出会った人たちも仕事も経験も様々な人たちでいろいろなことを学ぶことができた。
私にとってはとてもいい人生経験になったと思っている。
とても必要な人生における訓練期間であったと思っている。
(夜間の訪問や突然のアンケートで嫌な思いをさせてしまった人も多いとは思いますが・・・)

STB時代も何かイベントがあるときにはケーキ作りが私の仕事となっていた。
急遽会社を早退してケーキを作ってほしいと言われることなどもあった。
支部長(支部のトップの人)としては早く献身させてケーキの店を作りたいという夢があったらしい。
たぶん他の人たちからは反対されていたことだろう。
基本的にあまりアベルの意見を聞かず勝手な行動を取ることが多い。
ほとんどの場合は事後報告である。
そういったところで目をつけられていたところもある。
あまりに言う事を聞かないので前線メンバー(伝道活動など)から外されて食当補佐という立場にされたこともある。
しかし、仕事を終えて帰ってくるとすでに夕食は出来上がっている。
特にやることも無く、他の食事当番の人とおしゃべりをして一日が終わることも多々あった。
それはそれで楽しかったので一向に問題も感じることなく数ヶ月そんな生活をしていたこともある。

1993年12月に支部長の意向もあり直接のアベルからはまだ早いと反対されていたのだが、自分の判断で献身のために会社を急遽辞めてきてしまった。
しかたがないので、ということで「’準’献身ですよ」と念を押された上、1994年1月に献身する。
しかし、献身したものの常に監視されているような精神的圧迫に耐えられず、そしてボランティアでのハンカチ売りという詐欺まがいの行為にも精神的に耐えられず、半月と持たずに体が根を上げ3日間ほど寝込むこととなる。
その前に海外宣教メンバーの話しがあれば行ってみたいかという質問に行きたいと答えていたこともあり、寝込んでいる間に第2陣の海外宣教教育のメンバーに選ばれてしまった。
そこから先はもう日本統一協会員のメンバーではなくアメリカの海外支部の直接の所属という形となり、一緒に住んでいても一切干渉されなくなった。
まずは16日間の韓国での教育のための準備。
そこに行ってフィジーという国に赴任されることが決まった。

ちなみに韓国へ行った第一陣は献身者たちから選ばれた人たち。
そして第2陣は基本的に自ら行きたいと望んだ人たちであった。

フィジーは第1陣の160ヶ国には含まれていない。新たに加えられた3ヶ国のうちの1ヶ国。
当然メンバーは全員自らの志願者であった。
中には献身生活も一度もしていないような人たちもいた。(私もそんなようなもんだけど・・・)
統一協会内でもたぶん特殊なメンバーが集まっていたんだろうと思う。
それだけ個性も豊かであったし、メンバー同士がぶつかることも多かったように思う。
私の場合、性格的に間に挟まれて調整役をやっていることが多かった。

とにかくそのようなメンバーが集まり、ローテーションを組んでそれぞれ渡航費などを貯めてフィジーに行くことになった。

そのため、10月末までは、昼間は派遣の仕事、夜はファミリーレストランでとひたすら働き、あまり統一協会側のイベントにも参加せず、ただ一直線にフィジー行きに燃えていた。
そしてそのことに対して一緒に暮らしていたメンバー達も協力的であった。
その期間に成約断食(一週間の断食)なども仕事をしながらこなし、精神的にも準備を整えていたというところか。(本音を言うと成約断食をしなければ本物の統一協会員じゃないといわれるのが悔しかったことと、一週間の断食というものがどういうものなのかという興味から行ったのだが・・・)

そして11月21日まずはオーストラリアに向けて出発。
オーストラリアの統一協会に5日ほど滞在したのちフィジーに向かった。
フィジーでの活動は表向きは「世界平和女性連合」という女性団体という形で入っていった。
その中で統一協会の伝道活動もしていくということが本来の目的であった。
しかし私の中では伝道活動より女性団体としてこの国の為に何ができるのか?
そのことのほうが大きな関心事であった。
伝道活動はそういったことをしていく中での結果としてついてくる人が出てくるものと信じていた。

日本人10名と現地の女性1人が主なメンバー。
日本人は3人ずつのローテーションでやっていくことになっていた、しかし日本人1人は事情で来ることはできなくなり9人でローテーションを組んでいくこととなる。
4ヵ月後との交代のはずだったが、私たちの次のメンバーがコンビネーションが悪く不安だということで、私が調整役としてもう1人が通訳として更に2ヶ月残ることになった。

この期間の私たちは個人的に統一協会の信仰は持っているがあくまでも「世界平和女性連合」としての活動をしていかなければならなかった。
そして人を集めるために、日本語学校を開いてみたり、いろいろな他の女性団体の元を訪れてどういった活動をしていったらいいのかを検討したりしていた。
そういった人の中からよさそうな人には原理を学ばせ教育していく。

しかしフィジーはキリスト教国家で、統一協会の活動は一切認めていない国であった。
私と一緒に残っていたメンバーがフィジーを離れた次の日に私たちの活動が統一協会の活動であるという記事が新聞の一面に載り、残っていたメンバーは全員、強制送還されることとなった。
私達は間一髪強制送還から免れたことになる。
一度オーストラリアを経由して日本に帰ったのでオーストラリアにいる間中その情報が入ってきていた。
しかし、その間そんなこととは関係なくオーストラリア観光を楽しんでいたが・・・
フィジー時代写真集

そして1995年5月25日木曜日、日本へ帰ってきた。

最後に統一協会員として、メンバーにあったのは次の月曜日、強制送還で同じ時期に日本に帰国していたメンバーの1人と一瞬、渋谷の街中で会ったのが最後である。

半年のフィジーでの生活の中で統一協会の組織としてのやり方への疑問や不満が山ほどあってアベルに問いただしたかったのだが、それをすることなく統一協会を辞めることとなってしまったことだけが心残りである。

前へ戻る 次へ